太田隆次の人事講座

日本の官吏登用試験の略史 [人事の教養]

投稿日時:2012/08/21(火) 09:00rss


 日本の官吏登用試験の歴史は、古代から現代に至るまで、家柄か能力か実績か三つのいずれを取るかの歴史でもあります。かいつまんで振り返ってみましょう。


 1.古代日本は氏族社会の集合体でしたから、官吏登用は血縁、家柄がすべてでした。

 2.飛鳥時代は、聖徳太子が官吏に「冠位十二階制度」を実施、血縁、家柄に関係なく、能力に応じて「徳・仁・礼・信・義・智」を大小に分けて十二階(大徳~小智)の位を定め、冠(帽子)に位ごとに紫,青、赤、黄、白、黒の濃淡をつけました。(白色はどうやって濃淡をつけたのか疑問視する説もありますが) 働きぶりに応じて冠位を上下させ、家柄の低い氏族でも実績で頑張れば高い地位につけるようにしました。遣隋使で有名な小野妹子も低い身分でしたが抜擢され、最上位の大徳まで昇進し、国家を代表して遣隋使として活躍しました。

 3.奈良時代は、中央に大学、地方に国学制度は出来ても、登用や昇進は家柄次第でした。家柄に関係なく試験の成績による中国の「科挙」導入も検討されましたが、貴族階級の猛反対で導入されませんでした。

 4、平安時代は、藤原摂関家の時代で、菅原道真のように学問には優れていても、家柄が低かったので上位には昇進出来ない晩年を送った官吏が多くいました。

 5.戦国時代は下剋上の時代で、何よりも手柄という実績が、家柄や能力より重んじられました。しかし朝廷は家柄主義で、実績はあっても家柄が低かった秀吉は、公卿に近づくとか、関白という最高の官位を求めるとか最後まで苦労が絶えませんでした。

 4.江戸時代は「士農工商」で、生れながらにして一生の身分が決まり、武士社会も生れた家柄で身分が決まっていました。
 所が、徳川吉宗の孫の松平定信(1759~1829)が、寛政の改革で、幕府の幹部(旗本、ご家人)のみを(この下のは平社員で除く)対象に、家柄以外に「学問吟味」と称される学力試験による登用の道を開きました。寛政4年(1792年)から慶応4年(1868年)まで、3年から5年に一度、実施され、一回に200人から300人が受験して、成績の段階により甲科は2人~7人、乙科は6人~49人、丙科は10人~55人の合格者があり、乙科合格まで受験を続けるよう奨励されました。「遠山の金さん」こと遠山金四郎も及第者の一人です。及第者には褒美の言葉と金品が与えられました。

 試験は、論文科目の「論題」では「仁者必有勇」(仁者は必ず勇あり)の解釈を述べよとか、課題に対する解決策を述べる「策題」では「省冗費」(冗費を省く策とは)、「育人材」(人材を育てる策とは)などが例です。
 実施機関が後の官吏養成学校としての帝国大学につながる幕府の昌平坂学問所だったので、明治以降の官吏の登用試験制度にも大きな影響を与えました。