太田隆次の人事講座

敵の背後にいる味方と思われた聖徳太子と邪馬台国の卑弥呼 [目指せ!人事の雑学王]

投稿日時:2012/10/18(木) 09:00rss


聖徳太子の国書騒動
 聖徳太子は607年(33歳)に小野妹子を遣隋使として隋(581~681)に派遣しました。
その時の国書の「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや」に
隋の煬帝が、属国の日本が無礼千万と激怒し、臣下に今後、日本からの国書は取りつぐなと命じた、
と私達は日本歴史で習いました。

 しかし、隋の記録によると、実際は違うようです。
その頃、
 ・煬帝は父(文帝)と兄を暗殺して第二代皇帝に即位して3年目でまだ権力が弱かった
 ・高句麗への遠征で苦戦していた
 ・小野妹子はこれまでの遣隋使と違い、公式な官位を持っていたので、
  蛮国と見下していた日本の政治制度が整備されていたことが隋に知られた
などの理由から、この際、高句麗の背後の日本と手を結んだ方が得策と、
翌608年、煬帝は隋の国使を飛鳥に送り、日本式に四度お辞儀をして隋の国書を読ませて、
対等な友好関係を結ぶことになりました。

 今はやりの韓流歴史ドラマでも、中国歴代王朝が属国と見下していた韓国の歴代王朝との
対立と抗争がテーマになりますから、聖徳太子の国書で一旦憤慨した煬帝も思い直したのでしょう、
あるいは情報通だった聖徳太子がそこまで深読みしていたのかも知れません。

邪馬台国の位置
 魏志倭人伝は、中国の三国時代の魏(220~265)、呉(222~280), 蜀(216~263)の、
北方の魏の公式の国史で、そのうち倭の邪馬台国のことを紀行記風に書いたものです。
よく知られているように、その邪馬台国は九州説と近畿説があり、まだ決着はついていません。

 しかし、最近、第三の説として、この紀行記に書かれている方向や里数の通り忠実に辿っていくと、
九州を縦断し台湾やベトナムの方になるという説です。
これまでは筆者の間違いとして九州説や近畿説がありましたが、
魏志倭人伝はあくまでも魏という国の立場にたって書かれたものであり、
三国志にあるように、北にある魏は南にある呉と戦争状態にあり、
呉の背後に魏が貢物を受け取っている邪馬台国という国があるぞ、と呉を牽制したという説です。

隋も魏も、敵の背後の味方を頼りにしていたのですね。