太田隆次の人事講座

会津藩の「ならぬことはならぬのです」と長州藩の「そうせい」 [人事の教養]

投稿日時:2013/06/19(水) 09:00rss


NHKの大河ドラマ「八重の桜」が進行中です。

幕末の会津藩の全盛時代から最後の悲劇までと、長州藩の消滅寸前の悲劇から明治政府の実権を握る最後の勝利までの歴史が
対照的に展開されています。娯楽番組として見ればそれだけのことです。

しかし、歴史は、その時代の出来事を物語として楽しむだけでなく、何百年という長い目で見て、なぜその出来事が起こったのか、
なぜそういう結末になったのかの、ある法則性を未来に生きている現代人に伝え、教えてくれます。
だから、「歴史は未来を照らす鏡」だといわれるのです。

 
会津藩の「ならぬことはならぬのです」が現代人に教えてくれること

会津の教えの「ならぬことはならぬのです」は有名ですが、しきたりや上層部が決めたことは絶対服従ということです。
組織の発展にはこうした規律やトップダウンは必要です。    

しかし、ドラマにあるように、
会津藩の知らない所で幕府が降伏して江戸城引渡しと引き換えに徳川家の安泰を確保して「敵前逃亡」したのに、
会津藩は風土として上から下まで「ならぬことはならぬのです」のしがらみに金縛りになって徹底抗戦したために、
賊軍とみなされて全滅の悲劇に至ります。

ビジネスでも、風土のしがらみで身動きできなかったり、トップ経営者の判断の誤りで取り巻く環境に変化に適応していないと、
幕末の会津藩のように組織消滅の危険にさらされることになります。

 
長州藩の「そうせい」が現代人に教えてくれること

長州藩といえば戦国時代の毛利元就が三人の息子に諭した「三本の矢」で有名で、四国や中国全域を支配していた雄藩ですが、
関ヶ原の戦いで西軍だったため今の山口県に押し込められ「長州藩」となりました。

幕末には蛤御門の戦いや伏見鳥羽の戦いで薩摩藩と戦ったり、英国海軍に関門海峡で敗れたり、
幕府の征討軍に攻め入れられたり、最後は薩摩藩と組んで薩長連盟を作ったり、最後は官軍として薩摩藩などと共に会津藩を攻略するなど、政治的には右往左往しました。  

しかし、明治維新以後は、長州藩士の伊藤博文が総理大臣になったり、同じく長州藩士の山県有朋が日本軍隊を創設するなど、
幕末から明治政府にかけての長い戦いで最後まで生き残って勝ったのは長州藩です。

幕末には小さな藩だった長州藩が、何度か倒れそうになったのに、長丁場を生き抜いて最後には勝ったのには
それだけの理由がありました。

幕末の長州藩主の毛利敬親(1819~1871)は、何でも「そうせい」と言ったので「そうせい公」とあだ名がついていましたが
実は違いました。重要な決定は、藩主の前に家老など藩のトップが集まって「トップダウン」で決めますが、
この毛利敬親は違いました。

彼は重要案件を決める際は、部屋を二分して、下座に若手の役人達を、上座に年配の家老たちを座らせ、
まず下座の若手役人達に自由闊達に意見を述べさせてから、次に年配の家老達に意見を聞き、
まとまった段階で、藩主として「そうせい」と決定したそうです。

決して何にもせずに「そうせい」と言ったのではなく、若手の意見を反映させる工夫をしたのです。
人材育成もかねていました。

現代ビジネス風に言えば、
取り巻く環境の変化に適応するために最新の情報を集め、階級にとらわれない多くの意見に耳を傾けたのです。
それに若手の役人達の多くは吉田松陰の門下生で、日本だけでなく世界にも目を向けていたという素地がありました。