太田隆次の人事講座

ふるさとの地名に残る神話と実録のロマン [目指せ!人事の雑学王]

投稿日時:2014/06/25(水) 09:00rss


 古事記と日本書紀はイザナミノミコト、天照大御神(アマテラスオオミカミ)の神代を経て、神武天皇からの歴代天皇の神話と実録が混じった長い長い物語です。

 そのうち神武天皇の記述は、現在の九州から瀬戸内海を渡り大阪湾から生駒山を超えて奈良を支配するまでの、地方豪族たちとの戦いと征服の波乱万丈の物語です。

 古事記の記述:船で大阪湾から生駒山麓に至るまでの現代語訳の一部です。
 「浪速(なみはや)を経て生駒山麓を超えるまでに、ナガスネヒコの抵抗にあい、神武天皇軍は矢を防ぐ盾を持って下船して戦った。それゆえこの地を盾津(たてつ)と名付けられた。今は日下(くさか)の蓼津(たでつ)と言っている」

 日本書紀の記述:もう少し生き生きと書いています。現代語訳の一部です。
 「吉備の国を経て三年後、準備万端を終えた神武天皇の船団は瀬戸内海を通り、お互いにロープでつなぎ合って大阪湾に入り東に向かった。途中、難波崎(なにわのみさきー現在の大阪市東区上町台地)に至った時、速い大浪に出会った。それでこの辺りを「浪速国」(なみはやのくに)というようになった。今、この辺りを「難波」(なには)ともいうのは「浪速」の訛りである」
 「更に浜に向かって潮流をさかのぼると、河内国の草香邑(くさかむら)に至った。
神武天皇軍は下船して険しい山を登ろうとしたが、奈良の豪族ナガスネヒコの軍隊が「神武天皇軍は我が国を奪いに来たのだ」と、孔舎衛坂(くさえざかー旧大阪府中河内郡孔舎衛坂村大字日下、現東大阪市日下町)で両軍の戦いになり、神武天皇軍は敗れて盾津に退いた」

 古事記や日本書紀に出てくる、神武天皇の大阪湾から生駒山麓に至る地名は最近まで使われています。

浪速は、浪花とも書かれて大阪の別名として広く使われています。旧浪速大学(現大阪府立大学)、浪速区、浪花節などきりがありません。神武天皇船団を驚かした「速い浪」がまだ生き残っています。

「浪速」の訛りの「難波」は、繁華街のナンバで親しまれ、南海電鉄、阪急阪神電鉄、大阪地下鉄をつないでいます。すぐ近くの生国魂(いくくにたま)神社(地元では、いくだま神社と呼ばれている)には、神武天皇に従っていた大工の神様などが祀られています。

古戦場の「孔舎衛坂」は、昭和まで近鉄奈良線の「孔舎衛坂駅」が旧生駒トンネル傍にありました。

盾津市は東大阪市に合併してなくなりましたが、盾津高校、盾津中学校などに盾津の名が残っています。

神代から伝わる由緒ある地名が合併などで、旧地名の一部をつないで棒読みした味気ない地名がどんどん増えてきました。
歴史のロマンを後世に語り続けて行きたいものです。